2.井上氏祈願所としての創成期から室町時代までの頃


浄運寺は山号を「井上山」と号し、清和源氏せいわげんじである信濃源氏頼季流の寺院であることから、正式な寺号は清和源氏の「清」が付されて「清浄運寺」といいます1)。井上氏発祥の井上の地に伽藍を構えた、井上氏の発願による寺院であります。井上氏の祈願所としてその歴史がはじまりました。つまり、井上氏の所領や一族の繁栄を祈る祈願寺としての役割を果たしていました。後述することになりますが、時代が下るにつれて、戦死した井上氏一族を祀るために井上の地における多くの寺院の創建や移転に関わってきたといいます。ただし、それら殆どの寺院が井上氏の歴史変遷と同様に井上の地から移転し、また宗派も様々であるために、当時井上ではどのような形態で多くの寺社仏閣が成り立っていたのかは明らかではありません。しかしながら、念仏を宗旨とする相当数の寺院が井上に存在していたと考えられています。

1)井上氏とゆかりのある寺院は、浄運寺と同様に山号を「井上山」と号し、寺号や院号に「清」の字を付すことが多いようです。Cf.『須坂市誌』(3-I pp.362-363),また、井上城は山号のまま「井上山城」と称されていた用例も確認できます。cf.『信濃史料』(8 p.327),『信濃史源考』(3 p.456),『新編信濃史料叢書』(2,p10)



浄運寺創成期から室町期までの史料で焼けずに残ったものがないわけではありません。この時代に井上氏から寄進された品々は少なからず今日まで寺宝として伝えられています。その数は今日の寺社仏閣が有する平均的な宝物ほうもつ数に比して非常に多いと考えられますが、その寺宝の数は創成期の一部であると『浄運寺史畧』では伝えています1)。『浄運寺史畧』が記された宝暦以降の天明においても浄運寺は火災の被害に遭っていることからも2)、今残っている寺宝は当時と比較すればほんの極一部であると考えられます。
それら残された井上氏より寄進された鎌倉期から室町期に亘る仏画などの掛軸は、川中島合戦や幾度の戦火を逃れて伝えられたものです。ただし、損傷が激しかったため、延宝2年に当地に残った井上氏が願主となって大修繕が施されました。

1)後に創建することとなる綿内正満寺にも什物品を分配しています。
2)例えば、市の文化財に指定されている張思恭ちょうしきょう筆の釈迦三尊の掛軸三幅は残りましたが、阿弥陀三尊の三幅は天明の火災で焼けてしまったといいます。




浄運寺は井上氏の庇護の下、井上氏の意図に従って応永年間の頃に、井上や近隣の地におけるさまざまな寺院建立に関わったことが伝えられています。15世の俊観は、井上浄光寺を建立し1)井上西厳寺いのうえさいごんじの移転にも関わったと伝えています2)。一時、井上にあったと推定される井上本誓寺いのうえほんぜいじについても、現在の浄運寺の境内に本誓寺地名が残っており3)、明らかに深い関係を有していたことが窺われます。一説には今日の善光寺が大本願と大勧進の二つの宗派から成り立つように、浄土宗と浄土真宗の二つの念仏宗派によって現在浄運寺に仮安置されている井上氏御本尊を護持していたのではないかと考える方もおりますが、想像の域を出ません4)。もっとも、江戸時代に宗制などが整備されるまで、どこまで各寺院に宗派意識があったのかも定かではありません。その他の寺院についても、当時は井上の地に相当数の念仏を教義とする寺院があったと考えられます。しかし、後の川中島合戦に前後して、井上氏の歴史と同様に全国各地に移転する道を選ぶ、あるいは、廃寺とならざるを得ない寺院も多かったでしょう。浄運寺は幸いにも、それらの困難を乗り越え井上の地に今日まで井上の地で法灯を守り続けています。

1)井上山浄興寺と称されていた寺院も井上にあったという史料があるそうです。但しそれが井上浄光寺と同一なのかは不明です。cf.『信濃』(3-4, pp.7-9)
2)井上西厳寺に御本尊を安置し「ナリタ」に寺を任せたと伝わっており、その御本尊は井上の成田家に残っており、浄運寺の裏書きがあります。また、井上には西厳寺屋敷跡という地名が残っているといいます。cf.『信濃』(9-12, pp.39-46),『信濃』(1942-11 pp.56-66)
3)cf.『信濃史料』(14 p.344),『信濃史料』(19 p.527),『信濃』(25-6 pp.1-15),『須坂市誌』(3-1 p.353)
4)浄運寺に残る文書の中で、檀信徒などが明治以降に著した略史などには、この説を採用するものもあります。また、井上本誓寺は、浄運寺と同敷地内で同伽藍なのではないかと指摘されることもあります。cf.須教『文化財』(1956 p.69)。