浄運寺は、建保2年(1214年)に法然上人の弟子であり角張入道成阿弥陀仏が開き、不乱房寿長上人が初代となった、800年以上の歴史を誇る、長野県で一番古い浄土宗寺院です1)。角張成阿は須坂市井上の出身で井上氏一族といわれています2)。主に「成阿」あるいは「浄阿」と称されます。浄土宗をお開きになられた法然上人に常髄近侍し、上人四国流罪の際に輿をかついだと伝えられている人で、師法然上人赦免後、信州に帰り浄運寺を開基されました3)。
2)cf. 石畠俊徳(1990)「源智上人と角張入道覚書(上)」『浄土』(1990-4 pp.11-19),「源智上人と角張入道覚書(下)」『浄土』(1990-5 pp.9-20)
3)浄運寺以外にも、信州では大光寺(大興寺)、法運寺、四国では、正福寺、正宗寺、法然寺等を開基したといいます。
角張成阿は、師法然上人より、御名号・数珠・鉦鼓・鏧子の四点を授かり、それらを法然上人の身代わりとして浄運寺に伝えました。同様の伝承は同じく角張が開基した四万十市の正福寺や法然寺にも伝えられています1)。残念ながら初期浄運寺に関する当時の古文書は、戦国時代の川中島合戦などの戦火によって、その殆どが失われてしまったようです。そのため、江戸時代に纏められた『浄運寺史畧』や天領の代官に送った文書、そして、『浄運寺日鑑』などの記述を手掛かりにするしかありませんでした2)。しかし、近年になって井上氏により将来したと伝わる快慶作の阿弥陀如来立像の胎内に古文書があることをCTスキャンによる調査で発見しました。もしかしたら、鎌倉期における井上氏や浄運寺について詳細に記されているのかもしれません。
2)明治になって江戸時代の古文書を基にして43世の元誉徳雄が『浄運寺史』と『浄運寺宝物録』を纏めています。
江戸前に纏められた古文書類から、最初期の浄運寺を窺い知るいくつかの伝記を随時ご紹介します。
◯虎御前の伝説
虎御前は、鎌倉時代初期の頃に大磯の遊女であり、曾我祐成の妾であったと伝えられる女性です。曾我兄弟の仇討ち事件の後、祐成が処刑されると、虎御前は祐成の菩提を弔い、納骨をするために長野善光寺に詣でたといいます。一説によりますと、後に上洛して虎御前は法然の法談を聞き、浄土門に帰依したとも伝わります。それが機縁となったかは分かりませんが、法然の直弟子である浄運寺開基の角張とも縁があったといいます。虎御前は井上に滞在した際に、角張から聞いていたという浄運寺へ訪れ、初代の不乱坊と2世寿栄のもとへ通い、教えを学び念仏に生きたと語り継がれています。
ただし、虎御前を題材とした物語というのは、全国各地でも創作されていますし、須坂市内ですらいくつかあるようです1)。虎御前の墓にいたっては信州だけでも56箇所あるとも言われております2)。ですから、信憑性が高いとは言い切れませんが、浄運寺では江戸前において既に虎御前に関する逸話が成立していたようです。そのため江戸幕府が開かれる前より、家康公から「虎」の書を拝領しています。また、井上の地には虎小路といわれていた街道が残っているといいます3)。
2)cf.『信濃』(2-4 p.16)
3)cf.『新編信濃史料叢書』(4 pp.458-459)
◯孝養の名号
準備中です。